STORY — HIGASHIHIROSHIMA
東広島の城をめぐる物語 — 大内氏の拠点から、毛利氏の時代へ
東広島市には、城郭放浪記の一覧で151か所の城跡が載っています。そのうち、広島歴史回廊が御城印を出せているのは6城だけです。西の大内氏、東の細川氏、北の尼子氏が接する境目の土地で、1523年の鏡山城の落城から1600年の関ヶ原までを、御城印のある6城を中心にたどります。
東広島の城は、どこにある?
地図には、御城印のある6つの城跡を載せています。東広島市の城跡は、これで全部ではありません。青いピンを押すと、城の物語に移れます。
ピンの位置は、おおよその位置です。現地へ行かれる際は「地図アプリで開く」もご利用ください。地図は © OpenStreetMap contributors。
| 鏡山城 | 大内氏(重臣が東西条代官・城番として交代で在城) |
|---|---|
| 米山城 | 志和東天野氏(天野顕義の系統、のち天野興定 |
| 御薗宇城 | 平賀氏 |
| 頭崎城 | 平賀氏(築城・平賀弘保、居城・嫡男の興貞 |
| 槌山城 | 大内方(弘中隆兼、のち菅田宣真が守将と伝わる |
| 白山城 | 平賀氏(築城・平賀弘保 |
東広島の城の歴史を、年表でたどる(中世から関ヶ原・江戸開府まで)
大内氏が鏡山城を拠点にした時代から、毛利氏の台頭、関ヶ原の戦い、福島正則の入封までを、城ごとの出来事でつないだ年表です。
- 南北朝〜室町前期(時期は資料により異なる)大内氏が西条盆地の中央・鏡山に鏡山城を築き、安芸・備後支配の拠点とした。築城時期は市の説明では発掘調査から南北朝時代頃、Wikipediaや城郭放浪記では長禄〜寛正年間(1457〜66)頃とされ、資料間で食い違う。(史跡 鏡山城跡 - 東広島市(国指定文化財)、Wikipedia「鏡山城の戦い」、安芸 鏡山城 - 城郭放浪記)
- 鎌倉時代(弘安年間など)出羽国平鹿郡から西下した平賀氏が高屋保に御薗宇城を築き、本拠とした。築城時期は弘安年間(1278〜88)説と、文永11年(1274)頃に元寇に備えて下向したとする説がある。(県史跡 平賀氏の遺跡 - 東広島市、安芸 御薗宇城 - 城郭放浪記、Wikipedia「平賀氏」)
- 1403〜1404年(応永10〜11年)安芸守護となった山名満氏が平賀弘章の御薗宇城を包囲。平賀氏は他の安芸国人の支援を受け約3年耐えた。年は1403年(Wikipedia・城郭放浪記)と1404年(東広島市)で食い違う。(Wikipedia「御薗宇城」、県史跡 平賀氏の遺跡 - 東広島市、安芸 御薗宇城 - 城郭放浪記)
- 1478年(文明10年)大内政弘の署名がある、現存最古の城掟「安芸国西条鏡城法式条々」が定められた。鏡山城には交代制の城衆と城料所が置かれ、大内氏の拠点として整備されていた。(史跡 鏡山城跡 - 東広島市(国指定文化財))
- 1503年(文亀3年)平賀弘保が白山城を築き、御薗宇城から本拠を移した。(県史跡 平賀氏の遺跡 - 東広島市、Wikipedia「白山城 (安芸国)」、安芸 白山城 - 城郭放浪記)
- 1523年(大永3年)6月尼子経久が安芸へ進出し、大内方の鏡山城を攻撃。毛利元就(幸松丸の後見)らが従軍して攻め、城将・蔵田房信は妻子と城兵の助命を条件に自害。鏡山城は6月28日ごろ落城した。元就が房信の叔父・蔵田直信を内応させたとされる。(Wikipedia「鏡山城の戦い」、Wikipedia「毛利元就」、史跡 鏡山城跡 - 東広島市(国指定文化財))
- 1523年(大永3年)鏡山城落城を受け、平賀弘保が頭崎山に頭崎城を築き、嫡男・興貞を置いた。弘保は大内方、興貞は尼子方に分かれて対立し、親子の不和が平賀氏を揺るがした。(Wikipedia「頭崎城」、県史跡 平賀氏の遺跡 - 東広島市、安芸 頭崎城 - 城郭放浪記)
- 1525年(大永5年)3月、毛利元就が尼子方から大内方へ転じる。大内方は鏡山城を奪回し、陶興房の軍が天野興定の米山城を囲んだが、元就の仲介で興定は降伏して大内方に復した。(Wikipedia「毛利元就」、Wikipedia「鏡山城の戦い」、Wikipedia「天野氏」)
- 1525年以降大内氏は鏡山城に代えて杣城(曽場ヶ城)、のちに槌山城を安芸支配の拠点とし、鏡山城は役割を終えた(廃城)と考えられている。(史跡 鏡山城跡 - 東広島市(国指定文化財)、市史跡 曽場が城跡 - 東広島市、Wikipedia「鏡山城の戦い」)
- 1535〜1536年(天文4〜5年)白山城の平賀弘保と頭崎城の興貞が戦った(城郭放浪記)。(安芸 白山城 - 城郭放浪記)
- 1540年(天文9年)大内義隆の命を受けた毛利元就が高屋保に進出し、頭崎城を攻略。興貞は出家し、子の隆宗が家督を継いだ。(Wikipedia「頭崎城」、Wikipedia「平賀氏」)
- 1543年(天文12年)弘中隆兼が西条守護となり、拠点を杣城南方の槌山城へ移したとされる(Wikipedia・市の説明)。城郭放浪記は弘中隆兼の配置を1523年とし、食い違う。(市史跡 曽場が城跡 - 東広島市、Wikipedia「槌山城」、安芸 槌山城 - 城郭放浪記)
- 1551年(天文20年)9月、大寧寺の変で大内義隆が陶晴賢に討たれる。毛利元就は安芸の大内方国人を攻め、頭崎城の平賀隆保を自刃に追い込み、平賀広相を当主に据えた。続いて槌山城の義隆派も攻められ落城し、城は廃された。(Wikipedia「大内義隆」、Wikipedia「毛利元就」、Wikipedia「平賀氏」)
- 1552〜1553年(天文21〜22年)広相は小早川隆景と兄弟の契約を結び、翌年には毛利・吉川氏らとの4家の盟約に加わり、毛利方の有力国衆となった。(県史跡 平賀氏の遺跡 - 東広島市)
- 1555年(天文24年・弘治元年)10月厳島の戦い。毛利元就が陶晴賢を破り、陶氏の勢力は安芸で後退した。日付はWikipedia(厳島の戦い)で10月1日。(Wikipedia「厳島の戦い」、Wikipedia「毛利元就」)
- 1555〜1556年天野隆綱が厳島の戦いで毛利元就に従う。家督は弟の元定へ移り、1556年に元就の推挙で元定が家督を相続(天野氏の項の記述)。のち元就七男の元政が元定の婿養子となり天野元政を名乗った。(Wikipedia「天野氏」)
- 1557年(弘治3年)4月大内義長が自害し大内氏が滅亡。毛利氏の防長経略が完了した。(Wikipedia「防長経略」、Wikipedia「毛利元就」)
- 1600年(慶長5年)9月15日の関ヶ原の戦いで西軍が敗れ、毛利氏は周防・長門の2国に削られる。安芸の国衆の平賀氏や天野氏は毛利氏の移封に従った。(Wikipedia「毛利輝元」、県史跡 平賀氏の遺跡 - 東広島市、Wikipedia「天野氏」)
- 1601年(慶長6年)3月福島正則が安芸・備後(約49万8千石)に入封(Wikipedia)。広島市の説明は1600年後任として統治としており、年の捉え方が異なる。(Wikipedia「福島正則」、福島正則没後400年記念事業 - 広島市)
- 1603年(慶長8年)徳川家康が征夷大将軍となり江戸幕府を開く。(Wikipedia「徳川家康」)
福島正則の入国:慶長6年(1601)3月(Wikipedia)/広島市のページは慶長5年(1600)の毛利減封後の統治と記述し、入国月日は不明。
厳島の戦い:天文24年10月1日(Wikipedia『厳島の戦い』)、『毛利元就』は弘治元年(同年の改元後)と表記。同一年。
毛利氏の防長減封:Wikipedia『毛利輝元』は月日・石高を記さない。広島市は『減封』と記す。『移封』の語の扱いは資料により異なる。
東広島の物語を、問いでたどる
Q. なぜ東広島は戦国の争奪地になったのか?
西条盆地は、西の大内氏と東の細川氏、のち北の尼子氏が接する境目にあたる。大内氏は鏡山城を安芸支配の拠点・東の最前線とし、周辺の平賀氏・天野氏ら国衆の動きが戦局に大きく影響した。(東広島市の歴史文化の特性と関連文化財群(第4章)、史跡 鏡山城跡 - 東広島市(国指定文化財))
Q. 平賀氏と天野氏は何をした国衆か?
平賀氏は高屋保を本拠とする有力国衆、天野氏は志和を本拠とする有力国衆。多くは大内氏に従ったが、毛利氏らと同盟して自立を図った。(東広島市の歴史文化の特性と関連文化財群(第4章)、Wikipedia「天野氏」)
Q. 1523年の鏡山城落城は、地域にどんな意味があったか?
尼子氏の南下で大内氏の安芸支配は後退し、平賀氏は頭崎城を築くなど対応を迫られ、父子が大内方・尼子方に分裂した。(史跡 鏡山城跡 - 東広島市(国指定文化財)、Wikipedia「頭崎城」、県史跡 平賀氏の遺跡 - 東広島市)
Q. なぜ毛利氏は東広島に影響を及ぼせたのか?
1525年に元就が大内方に付き、天野氏の降伏を仲介。1551年の大寧寺の変後には頭崎城を攻めて広相を当主にし、平賀氏を取り込んだ。(Wikipedia「毛利元就」、Wikipedia「天野氏」、Wikipedia「頭崎城」)
Q. 大内氏はいつ滅びたか?
1551年に義隆が自害し、1557年4月に大内義長が自害して滅亡した。毛利氏が防長を制圧した。(Wikipedia「大内義隆」、Wikipedia「防長経略」)
Q. 関ヶ原の後、東広島の国衆はどうなったか?
毛利氏の防長移封に平賀氏、天野氏は随従した。平賀氏は所領が18,000石から4,000石に減ったとされる。福島正則が安芸・備後に入封した(1601年3月=Wikipedia)。(Wikipedia「平賀氏」、Wikipedia「天野氏」、Wikipedia「毛利輝元」)
城ごとの物語
御城印は、まだ一部です — 東広島には、もっと城跡があります
城郭放浪記の一覧には、東広島の城跡が151か所載っています。広島歴史回廊が御城印を出せているのは、そのうち6城だけです。いま販売できているのは物語を調べ終えた城に限られていて、残りの多くは、これから順に増やしていきます。
城跡の数は、個人が運営する城郭データベース「城郭放浪記」の掲載数です(2026年10月時点)。公的な統計ではなく、調査や分け方によって数は変わります。
ご存じの城の話や、御城印にしてほしい城があれば、お問い合わせからお知らせください。
東広島の御城印
東広島市の城のうち、御城印のある6城です。6城ともオンラインで販売中です。価格は各600円(税込)。
東広島の6城の御城印は、トップページの「新作」からオンラインでお求めいただけます。各600円(税込)です。
よくある質問
Q1.東広島の城は、すべて御城印になっていますか?
いいえ。城郭放浪記の一覧には東広島の城跡が151か所載っていますが、御城印を出せているのは6城だけです。物語を調べ終えた城から、順に増やしていきます。
Q2.東広島の御城印は、どこで買えますか?
東広島の6城(鏡山城・米山城・御薗宇城・頭崎城・槌山城・白山城)の御城印は、トップページの「新作」からオンラインでお求めいただけます。価格は各600円(税込)です。
Q3.なぜ東広島は戦国の争奪地になったのか?
西条盆地は、西の大内氏と東の細川氏、のち北の尼子氏が接する境目にあたる。大内氏は鏡山城を安芸支配の拠点・東の最前線とし、周辺の平賀氏・天野氏ら国衆の動きが戦局に大きく影響した。
Q4.平賀氏と天野氏は何をした国衆か?
平賀氏は高屋保を本拠とする有力国衆、天野氏は志和を本拠とする有力国衆。多くは大内氏に従ったが、毛利氏らと同盟して自立を図った。
Q5.1523年の鏡山城落城は、地域にどんな意味があったか?
尼子氏の南下で大内氏の安芸支配は後退し、平賀氏は頭崎城を築くなど対応を迫られ、父子が大内方・尼子方に分裂した。
出典
- 史跡 鏡山城跡 - 東広島市(国指定文化財)
- 鏡山城の戦い - Wikipedia
- 安芸 鏡山城 - 城郭放浪記
- 県史跡 平賀氏の遺跡 - 東広島市
- 安芸 御薗宇城 - 城郭放浪記
- 平賀氏 - Wikipedia
- 御薗宇城 - Wikipedia
- 白山城 (安芸国) - Wikipedia
- 安芸 白山城 - 城郭放浪記
- 毛利元就 - Wikipedia
- 頭崎城 - Wikipedia
- 安芸 頭崎城 - 城郭放浪記
- 天野氏 - Wikipedia
- 市史跡 曽場が城跡 - 東広島市
- 槌山城 - Wikipedia
- 安芸 槌山城 - 城郭放浪記
- 大内義隆 - Wikipedia
- 厳島の戦い - Wikipedia
- 防長経略 - Wikipedia
- 毛利輝元 - Wikipedia
- 市史跡 生城山城跡 - 東広島市
- 福島正則 - Wikipedia
- 福島正則没後400年記念事業 - 広島市
- 徳川家康 - Wikipedia
- 東広島市の歴史文化の特性と関連文化財群(第4章)
- 広島県東広島市のお城一覧 - 城郭放浪記
年号・人名は上記の出典に基づきます。史実と伝承は分けて書き、伝承は「伝わる」「とされる」と表記しています。資料によって説が分かれる点は、その旨を併記しています。





