STORY — HIGASHIHIROSHIMA / KOMEYAMA
米山城 — 元就の仲介、毛利重臣への道
米山城は、志和東を治めた天野氏の城です。1525年、尼子方だった天野興定が大内方の陶興房軍に囲まれ、毛利元就の仲介で降伏して大内方に戻りました。
米山城は、どんな城?
| 所在地 | 広島県東広島市志和町志和東 |
|---|---|
| 城主 | 志和東天野氏(天野顕義の系統、のち天野興定 |
| 築城 | 鎌倉時代に天野顕義が築いたとされる(年は不明 |
| 遺構 | 独立丘の平山城(比高20m足らず)。西端に楕円形の本丸(長径約40m)、東に細長い二の丸(約65m)、三の丸、小郭、腰郭と土塁。西と北麓を東川が流れ、堀の役割か。北東約250mに天野氏菩提寺とされる浄蓮寺。 |
ピンの位置は、おおよその位置です。現地へ行かれる際は「地図アプリで開く」もご利用ください。地図は © OpenStreetMap contributors。
米山城の歴史を、年表で
- 鎌倉時代志芳庄東村の地頭となった天野顕義が拠点としたとされる。(米山城跡 - コトバンク、安芸 米山城 - 城郭放浪記、Wikipedia「天野氏」)
- 1525年(大永5年)尼子方に属した天野興定の米山城を、大内氏の陶興房軍が包囲。毛利元就の仲介で興定は降伏し、大内方に復した。(Wikipedia「天野氏」、Wikipedia「鏡山城の戦い」、市史跡 生城山城跡 - 東広島市)
- 1525年以降のち本拠を生城山城へ移したと伝わる(志和東天野氏)。(市史跡 生城山城跡 - 東広島市)
- 1556年ごろ元就の七男・元政が天野元定の婿養子となり、天野元政を名乗る。(Wikipedia「天野氏」)
資料によって説が分かれる点
築城者:Wikipedia『天野氏』は顕義が米山城を築いたと記し、城郭放浪記は鎌倉時代に顕義が築いたとする。コトバンクは顕義の拠点とのみ記す。生城山城の築城者は市の説明では興定と伝わる。
生城山城跡の市指定日:1978年11月5日と11月15日の記載が同一ページ内で食い違う(隣接城のため参考)。
築城者:Wikipedia『天野氏』は顕義が米山城を築いたと記し、城郭放浪記は鎌倉時代に顕義が築いたとする。コトバンクは顕義の拠点とのみ記す。生城山城の築城者は市の説明では興定と伝わる。
生城山城跡の市指定日:1978年11月5日と11月15日の記載が同一ページ内で食い違う(隣接城のため参考)。
米山城の物語
Q. 天野氏はなぜ毛利氏に近づいたのか?
1525年の米山城の包囲戦で、毛利元就が和睦を仲介して興定の降伏を取りまとめたことが契機。以後、興定は1540年に吉田郡山城の援軍にも出ている。のち元就の七男が天野家を継いだ。(Wikipedia「天野氏」)
Q. 米山城と生城山城の関係は?
市の説明では、志和東天野氏の本拠はもと米山城で、1525年の和議後に生城山城へ移ったと伝わる。生城山城は標高485mの山城で市史跡。(市史跡 生城山城跡 - 東広島市)
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よくある質問
Q1.米山城はどこにありますか?
東広島市志和町志和東にあります。
Q2.天野氏はなぜ毛利氏に近づいたのか?
1525年の米山城の包囲戦で、毛利元就が和睦を仲介して興定の降伏を取りまとめたことが契機。以後、興定は1540年に吉田郡山城の援軍にも出ている。のち元就の七男が天野家を継いだ。
Q3.米山城と生城山城の関係は?
市の説明では、志和東天野氏の本拠はもと米山城で、1525年の和議後に生城山城へ移ったと伝わる。生城山城は標高485mの山城で市史跡。
出典
年号・人名は上記の出典に基づきます。史実と伝承は分けて書き、伝承は「伝わる」「とされる」と表記しています。資料によって説が分かれる点は、その旨を併記しています。
