STORY — HIGASHIHIROSHIMA / KASHIZAKI
頭崎城 — 安芸随一、平賀氏の要害
頭崎城は、1523年ごろ、平賀弘保が鏡山城の落城を受けて築いた平賀氏の城です。嫡男の興貞が入り、父子が大内方と尼子方に分かれて争いました。県史跡「平賀氏の遺跡」の一つです。
頭崎城は、どんな城?
| 所在地 | 広島県東広島市高屋町貞重(頭崎山 |
|---|---|
| 城主 | 平賀氏(築城・平賀弘保、居城・嫡男の興貞。のち隆宗、隆保、広相 |
| 築城 | 1523年(大永3年)ごろ |
| 廃城 | 関ヶ原後、毛利氏の防長移封に平賀氏が随行して廃城(Wikipedia |
| 指定 | 広島県史跡「平賀氏の遺跡」の一つ |
| 遺構 | 標高504m、比高約200m。甲の丸(石垣あり)、二の丸、三の丸、西の丸、太鼓の段、煙硝の段、稽古場、大将陣などの曲輪が残る。西の丸の東に連続竪堀、北東に畝状竪堀群。南麓に屋形原・御屋敷・蔵屋敷などの地名。県内最大級(Wikipedia)。 |
| アクセス | 南西麓の貞重集会所近くに案内板。林道で西の丸下の駐車場まで車で行けるとの訪問記録(城郭放浪記、2014年訪問)。 |
ピンの位置は、おおよその位置です。現地へ行かれる際は「地図アプリで開く」もご利用ください。地図は © OpenStreetMap contributors。
頭崎城の歴史を、年表で
- 1523年(大永3年)6月鏡山城落城を受け、弘保が白山城の防備に不安を覚えて築城し、興貞を置いた。興貞は父に背いて尼子方に付いた。(Wikipedia「頭崎城」、県史跡 平賀氏の遺跡 - 東広島市、安芸 頭崎城 - 城郭放浪記)
- 1535〜1536年白山城の弘保と頭崎城の興貞が戦う。(安芸 白山城 - 城郭放浪記)
- 1540年(天文9年)毛利元就が大内義隆の命で高屋保に進出し、頭崎城を攻略。興貞は出家した。(Wikipedia「頭崎城」、Wikipedia「平賀氏」)
- 1549年(天文18年)隆宗が神辺城攻めの陣中で病没。大内義隆の意向で小早川氏庶流の隆保が平賀家を継いだ。(Wikipedia「頭崎城」、県史跡 平賀氏の遺跡 - 東広島市)
- 1551年(天文20年)大寧寺の変後、元就が頭崎城の平賀隆保を攻めて落とし、隆保は自刃。広相が家督を継ぎ、平賀氏は毛利方に付いた。(Wikipedia「頭崎城」、Wikipedia「平賀氏」、Wikipedia「毛利元就」)
城域の規模:東西900m×南北600m(Wikipedia)/東西約700m×南北約500m(城郭放浪記)。
『頭崎城の戦い』という名の独立項目はWikipediaに見つからず、1540年・1551年の攻略として記述されている。
頭崎城の物語
Q. なぜ頭崎城は築かれたのか?
1523年に大内方の鏡山城が落ちた後、平賀弘保が白山城だけでは不安として、より大きな山城を築き、子の興貞に守らせたとされる。(Wikipedia「頭崎城」、県史跡 平賀氏の遺跡 - 東広島市、安芸 頭崎城 - 城郭放浪記)
Q. なぜ平賀氏は父子で分かれたのか?
大内氏と尼子氏のどちらに付くかをめぐり、弘保は大内方、興貞は尼子方に分かれた。(Wikipedia「頭崎城」、安芸 白山城 - 城郭放浪記)
Q. 毛利元就はなぜ頭崎城を攻めたのか?
大寧寺の変で大内義隆が討たれた後、義隆の意向で当主になっていた隆保(大内方)を除き、広相を当主に据えて平賀氏を味方に取り込むため。(Wikipedia「頭崎城」、Wikipedia「毛利元就」、県史跡 平賀氏の遺跡 - 東広島市)
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よくある質問
Q1.頭崎城はどこにありますか?
東広島市高屋町貞重にあります。広島県史跡「平賀氏の遺跡」の一つです。
Q2.なぜ頭崎城は築かれたのか?
1523年に大内方の鏡山城が落ちた後、平賀弘保が白山城だけでは不安として、より大きな山城を築き、子の興貞に守らせたとされる。
Q3.なぜ平賀氏は父子で分かれたのか?
大内氏と尼子氏のどちらに付くかをめぐり、弘保は大内方、興貞は尼子方に分かれた。
出典
年号・人名は上記の出典に基づきます。史実と伝承は分けて書き、伝承は「伝わる」「とされる」と表記しています。資料によって説が分かれる点は、その旨を併記しています。
