STORY — TAKEHARA
竹原の城をめぐる物語 — 小早川氏の時代から、徳川の世がはじまるまで
竹原市には、城郭放浪記の一覧で17か所の城跡が載っています。そのうち、広島歴史回廊が御城印を出せているのは3城だけです。鎌倉時代から約300年続いた竹原小早川氏の木村城、1585年ごろに村上武吉が拠った鎮海山城、水軍の将・乃美宗勝の賀儀城。1600年の関ヶ原で竹原の城の時代が終わるまでを、この3城を中心に、地図と年表でたどります。
竹原の城は、どこにある?
地図には、御城印のある竹原の3つの城跡を載せています。竹原市の城跡は、これで全部ではありません。ピンは、青が城跡、赤が御城印の販売所(道の駅たけはら)です。
ピンの位置は、おおよその位置です。現地へ行かれる際は「地図アプリで開く」もご利用ください。地図は © OpenStreetMap contributors。
| 木村城 | 竹原小早川氏の本拠。1258年ごろから約300年。県史跡。 |
|---|---|
| 鎮海山城 | 村上武吉・元吉父子が、能島を離れて竹原に移ったのち、1585年以降に築いたとされる山城。市史跡。 |
| 賀儀城 | 小早川水軍の将・乃美宗勝が、1565年に着工したとされる海城。 |
竹原の城の歴史を、年表でたどる(中世から関ヶ原まで)
竹原小早川氏が根を下ろした鎌倉時代から、関ヶ原の戦いで徳川家康の東軍が勝つまでを、城ごとの出来事でつないだ年表です。
- 1258年ごろ小早川茂平の四男・政景が、都宇竹原荘の地頭として入り、木村城を拠点にしたとされます。(竹原市)
- 約300年・14代竹原小早川氏は、木村城を根拠に約300年、14代にわたって続きました。(竹原市)
- 1544年(天文13年)当主・小早川興景が戦死。跡継ぎがおらず、竹原の重臣たちが毛利元就に後継を求め、元就の三男・隆景が12歳で竹原小早川家の当主になります。(Wikipedia「小早川隆景」)
- 1550〜1552年隆景は沼田小早川家も継ぎ、二つの小早川家が一つになります。1551年10月13日、隆景は木村城を出て高山城へ入り、翌1552年に新高山城を築きました。(Wikipedia「小早川隆景」)
- 1555年(弘治元年)厳島の戦い。乃美宗勝が、村上水軍を味方に引き入れる役を務めたとされます。(Wikipedia「乃美宗勝」「小早川隆景」)
- 1565年(永禄8年)乃美宗勝が、忠海に賀儀城を築きはじめたとされます。(Wikipedia「乃美宗勝」、攻城団)
- 1585年(天正13年)ごろ秀吉の四国攻めのさなか、村上武吉は小早川隆景に攻められて能島を明け渡し、隆景の領地・竹原へ移ります。鎮海山城は、このころ以降に武吉が築いたと伝わります。(Wikipedia「村上武吉」、竹原観光協会、ぐるっとたけはら観光ナビ)
- 1592年(天正20年)乃美宗勝が、筑前国で亡くなります(享年66)。(Wikipedia「乃美宗勝」)
- 1597年(慶長2年)小早川隆景が、三原城で亡くなります(享年65)。(Wikipedia「小早川隆景」)
- 1600年(慶長5年)関ヶ原の戦い。村上武吉の子・元吉は西軍として戦い、伊予の三津浜で討死します。敗れた毛利氏は周防・長門に減らされ、村上氏は竹原を去ることになります(「竹原崩れ」)。安芸国には福島正則が入ります。(Wikipedia「村上武吉」「広島藩」)
- 1601年(慶長6年)武吉は周防大島の和田(屋代島)へ移ります。鎮海山城が使われたのは、約6年間でした。(Wikipedia「村上武吉」、竹原観光協会)
- 1604年(慶長9年)村上武吉が、69歳で亡くなります。(Wikipedia「村上武吉」)
木村城が役目を終えた時期は、竹原市の説明では「天正19年(1591年)に廃城」とされています。一方、小早川隆景の事績をまとめた資料では、1551年に隆景が木村城を出て高山城へ入ったと書かれています。このページでは、両方の説を併記しています。
竹原の物語を、4つの問いでたどる
Q1. 竹原小早川氏は、なぜ毛利元就の三男を迎えたの?
1544年、当主の小早川興景が戦死しましたが、跡継ぎがいませんでした。そこで竹原の重臣たちが、毛利元就に後継を求めます。こうして元就の三男・隆景が、12歳で竹原小早川家の当主になりました。(Wikipedia「小早川隆景」)
のち隆景は、1550年に沼田小早川家も継ぎ、二つの小早川家は一つになります。木村城は、その出発点になった城です。
Q2. 村上武吉は、なぜ竹原に来たの?
本能寺の変(1582年)のあと、豊臣秀吉と毛利氏は和睦します。すると秀吉は、村上氏に来島の返還を求めました。武吉はこれを拒み、四国攻めにも加わりません。そこで小早川隆景が攻め、武吉は能島を明け渡して、隆景の領地である安芸国の竹原に移りました。(Wikipedia「村上武吉」)
竹原に移った武吉・元吉父子が拠った山城が、鎮海山城です。竹原観光協会によると、ここを拠点にしたのは1601年までの約6年間でした。
Q3. 乃美宗勝の「船を1日だけ貸して」は、本当にあった話?
伝承厳島の戦い(1555年)の前、毛利元就が村上水軍の力を借りようとしたとき、宗勝が交渉役を務めたとされます。「一日だけ軍船をお借りしたい」という元就の言葉を伝えた、という話が語り継がれていますが、この台詞の出どころははっきりしていません。軍記に伝わる逸話として読むのが安全です。(Wikipedia「乃美宗勝」)
宗勝が築いた城が賀儀城です。武将印では、この逸話を一枚にしました。
Q4. 「竹原崩れ」とは?
1600年の関ヶ原の戦いで、西軍の総大将だった毛利輝元は、約120万石から周防・長門の約29万8千石へ減らされました。村上元吉は西軍として戦い、三津浜で討死。村上氏は竹原を去り、武吉は1601年に周防大島の和田へ移ります。この一連の出来事は「竹原崩れ」と呼ばれます。(Wikipedia「村上武吉」「広島藩」)
毛利氏に代わって安芸国に入ったのが福島正則で、1619年には浅野長晟が入ります。竹原の城が現役だった時代は、関ヶ原で終わりました。
御城印は、まだ一部です — 竹原には、もっと城跡があります
城郭放浪記の一覧には、竹原市の城跡が17か所載っています。広島歴史回廊が御城印を出せているのは、そのうち3城だけです。木村城・鎮海山城・賀儀城のほかにも、手島屋敷、茶臼山城、本城山城、天下城、野々本城などが載っています。いま販売できているのは物語を調べ終えた城に限られていて、残りは、これから順に増やしていきます。
城跡の数は、個人が運営する城郭データベース「城郭放浪記」の掲載数です(2026年10月時点)。公的な統計ではなく、調査や分け方によって数は変わります。
ご存じの城の話や、御城印にしてほしい城があれば、お問い合わせからお知らせください。
竹原の御城印と、関連ニュース
竹原の3城と、乃美宗勝の武将印を新作として展開します。価格はすべて各600円(税込)です。カードを押すと、商品一覧に移ります。




竹原の御城印・武将印は、道の駅たけはら(竹原市本町1-1-1・営業時間 9:00〜17:00)で販売中です。営業時間は全国「道の駅」連絡会の掲載情報によります。最新の販売状況はトップページのお知らせをご覧ください。
よくある質問
Q1.竹原の城は、すべて御城印になっていますか?
いいえ。城郭放浪記の一覧には竹原市の城跡が17か所載っていますが、御城印を出せているのは木村城・鎮海山城・賀儀城の3城だけです。物語を調べ終えた城から、順に増やしていきます。
Q2.竹原の御城印は、どこで買えますか?
竹原の3城(木村城・鎮海山城・賀儀城)の御城印と、武将印(乃美宗勝)は、道の駅たけはら(竹原市本町1-1-1)で販売しています。価格は各600円(税込)です。
Q3.竹原で一番古い城は、どれですか?
最も古いのは木村城です。竹原市の説明では、1258年に小早川政景が都宇竹原荘の地頭として入り、この城を拠点にしたとされています。
Q4.鎮海山城は、誰の城ですか?
能島村上氏の村上武吉・元吉父子の城です。1585年ごろに能島を離れて竹原に移り、1601年まで約6年間、この地を拠点にしたとされています。
Q5.竹原の城は、いつまで使われましたか?
鎮海山城は1601年ごろまで、木村城は資料によって1551年前後または1591年とされています。関ヶ原の戦い(1600年)のあと、毛利氏が周防・長門に移り、竹原を拠点にした村上氏も去りました。
出典
- 竹原市「木村城跡」
- ひろしま文化大百科「木村城跡」
- Wikipedia「小早川隆景」
- Wikipedia「村上武吉」
- Wikipedia「乃美宗勝」
- Wikipedia「広島藩」
- 竹原観光協会「鎮海山城跡」
- ぐるっとたけはら観光ナビ「竹原の歴史・文化・浪漫に浸る」
- 攻城団「賀儀城」
- 全国「道の駅」連絡会「道の駅たけはら」
- 広島県竹原市のお城一覧 - 城郭放浪記
年号・人名は上記の出典に基づきます。史実と伝承は分けて書き、伝承は「伝わる」「とされる」と表記しています。資料によって説が分かれる点は、その旨を併記しています。