STORY — TAKEHARA / CHINKAIZAN
鎮海山城 — 「日本最大の海賊」が、竹原に築いた城
鎮海山城は、1585年ごろ以降、能島を離れた村上武吉・元吉父子が拠った山城です。拠点にしたのは約6年間。1600年の関ヶ原の戦いのあと、村上氏は竹原を去りました。
鎮海山城は、どんな城?
| 所在地 | 竹原市田ノ浦 |
|---|---|
| 時代 | 安土桃山時代(1585年以降) |
| 城主 | 能島村上氏の村上武吉・元吉父子 |
| 指定 | 竹原市史跡 |
| 遺構 | 標高88.1メートルの本丸を中心に、郭が段状に連なります。本丸には石組みの遺構が残り、城山神社が祀られていたと伝わります。北西には、城主・村上元吉の供養塔や、戦没者の墓とされる五輪塔があります。 |
| 御城印 | 「日本最大の海賊、竹原に城を築く」。道の駅たけはらで販売中(¥600・税込)。 |
ピンの位置は、おおよその位置です。現地へ行かれる際は「地図アプリで開く」もご利用ください。地図は © OpenStreetMap contributors。
鎮海山城の歴史を、年表で
- 1582年(天正10年)本能寺の変ののち、秀吉と毛利氏が和睦。秀吉が来島の返還を求めますが、村上武吉は拒みます。(Wikipedia「村上武吉」)
- 1585年(天正13年)ごろ武吉は四国攻めに加わらず、小早川隆景に攻められて能島を明け渡し、竹原へ移ります。鎮海山城は、このころ以降に武吉が築いたと伝わります。築城年代ははっきりしていません。(Wikipedia「村上武吉」、竹原観光協会)
- 1585〜1601年村上武吉・元吉父子が、約6年間、竹原を拠点にします。(竹原観光協会)
- 1600年(慶長5年)関ヶ原の戦い。元吉は西軍として戦い、伊予の三津浜で討死します。毛利氏は周防・長門に減らされ、村上氏は竹原を去ります(「竹原崩れ」)。(Wikipedia「村上武吉」「広島藩」)
- 1601年(慶長6年)武吉は周防大島の和田(屋代島)へ移ります。(Wikipedia「村上武吉」)
- 1604年(慶長9年)武吉が69歳で亡くなります。(Wikipedia「村上武吉」)
鎮海山城の物語
Q. 村上武吉は、なぜ竹原に来たの?
秀吉の四国攻めのとき、武吉は来島の返還を拒んで加わらず、小早川隆景に攻められました。能島を明け渡した武吉は、隆景の領地・竹原に移ります。(Wikipedia「村上武吉」)
Q. 「日本最大の海賊」とは?
評価宣教師フロイスが、瀬戸内を航ったときに武吉を「日本最大の海賊」と記したとされます。御城印の言葉も、この評価にちなんでいます。ここでいう海賊とは、瀬戸内の海を支配し、通行する船から通行料をとったり、水先案内や警固を引き受けたりした水軍のことです。
Q. 鎮海山城は、いつ役目を終えた?
1600年の関ヶ原のあと、毛利氏が周防・長門に移ると、村上氏も竹原を去りました。鎮海山城を拠点にした期間は、約6年間でした。(竹原観光協会)
鎮海山城の御城印

竹原の御城印・武将印は、道の駅たけはら(竹原市本町1-1-1・営業時間 9:00〜17:00)で販売中です。営業時間は全国「道の駅」連絡会の掲載情報によります。最新の販売状況はトップページのお知らせをご覧ください。
よくある質問
Q1.鎮海山城はどこにありますか?
竹原市田ノ浦にあります。標高88.1メートルの本丸を中心とした山城で、竹原市の史跡に指定されています。
Q2.鎮海山城を築いたのは誰ですか?
能島村上氏の村上武吉・元吉父子と伝わります。築城年代ははっきりしませんが、1585年(天正13年)以降とされています。
Q3.鎮海山城の御城印はどこで買えますか?
道の駅たけはら(竹原市本町1-1-1)で販売しています。価格は600円(税込)です。
出典
年号・人名は上記の出典に基づきます。史実と伝承は分けて書き、伝承は「伝わる」「とされる」と表記しています。資料によって説が分かれる点は、その旨を併記しています。