STORY — HIROSHIMA
広島市・府中町の城をめぐる物語 — 安芸武田氏から、広島城の誕生まで
広島市には、城郭放浪記の一覧で190か所の城跡が載っています(府中町は別の地域区分です)。そのうち、広島歴史回廊が御城印を出せているのは、広島市と府中町の7城だけです。1517年に安芸武田氏が衰え、1541年に銀山城が落ちたのち、毛利氏が広島湾へ進出します。1589年に広島城の築城が始まり、1600年の関ヶ原を経て、福島正則・浅野氏の時代へと続く流れを、御城印のある7城を中心にたどります。
広島市・府中町の城は、どこにある?
地図には、御城印のある7つの城跡を載せています。広島市の城跡は、これで全部ではありません。青いピンを押すと、城の物語に移れます。
ピンの位置は、おおよその位置です。現地へ行かれる際は「地図アプリで開く」もご利用ください。地図は © OpenStreetMap contributors。
| 佐東銀山城 | 安芸武田氏 → 大内氏(城番)→ 毛利氏(城番 |
|---|---|
| 草津城 | 羽仁氏 → 毛利氏(児玉就方・就英 |
| 府中出張城 | 白井氏(初代・白井加賀守胤時と伝わる |
| 石井城 | 石井氏(田所氏の一族と伝わる |
| 仁保城 | 白井氏 → 毛利方(香川光景が城番)→ 三浦元忠 |
| 矢野城 | 熊谷蓮覚 → 野間氏 |
| 広島城 | 毛利輝元 → 福島正則 → 浅野氏 |
広島市・府中町の城の歴史を、年表でたどる(中世から関ヶ原・江戸開府まで)
安芸武田氏の時代から、毛利氏の台頭、広島城の築城、関ヶ原、福島正則と浅野氏の入封までを、城ごとの出来事でつないだ年表です。
- 1221年(承久3年)承久の乱の功で武田信光が安芸の守護に任じられた。以後、武田氏と安芸の関わりが始まる。(武田山の歴史を知る 銀山城跡 - 広島市、武田山の歴史を知る 銀山城史略年表 - 広島市)
- 1274年(文永11年)武田信時が元軍への備えのため安芸に下向し、以後およそ300年にわたり安芸の支配に関わったとされる。(武田山の歴史を知る 銀山城跡 - 広島市、武田山の歴史を知る 銀山城史略年表 - 広島市)
- 1493〜1499年(明応2〜8年)大内氏が安芸武田氏の領内への侵攻を始め、家臣の離反もあって、武田氏は大内氏への服属を余儀なくされた。(Wikipedia「武田元繁」)
- 1515年(永正12年)武田元繁が大内氏から離反して尼子氏と結び、厳島神主家の内紛に介入した。(Wikipedia「武田元繁」)
- 1517年(永正14年)10月有田中井手の戦い。武田元繁が毛利・吉川勢との戦いで討たれた(10月21日に熊谷元直勢が敗れ、翌22日に元繁が討死)。この戦いを境に安芸武田氏は衰え、毛利氏が飛躍する分水嶺とされる。(Wikipedia「武田元繁」)
- 1523〜1525年毛利氏は1523年に尼子方へ転じ、1525年3月に再び大内方へ戻ったとされる(毛利元就の項の記述)。(Wikipedia「毛利元就」)
- 1524年・1528年大内義興(1524年)、大内義隆(1528年)が相次いで銀山城を包囲した。(武田山の歴史を知る 銀山城史略年表 - 広島市、Wikipedia「佐東銀山城」)
- 1541年(天文10年)大内・毛利勢の攻撃で銀山城が落城し、安芸武田氏は滅亡。大内氏が城番を置いた。当主の武田信実は出雲へ逃れ、尼子勢の敗退(吉田郡山城の戦い)で城は孤立していた。(武田山の歴史を知る 銀山城史略年表 - 広島市、Wikipedia「武田信実」、Wikipedia「佐東銀山城」)
- 1551年(天文20年)9月大寧寺の変。陶隆房(のち晴賢)が主君・大内義隆を自害に追い込み、実権を握った。これに同調した毛利元就は佐東郡などの領地を得て、安芸の大部分が毛利の勢力圏となった。(Wikipedia「大寧寺の変」)
- 1554年(天文23年)5月12日毛利元就が大内・陶氏と決別し、桜尾城など4城と厳島を攻略。広島湾周辺の諸城と水軍の守りを固めた。仁保城主・白井賢胤は城を追われ、府中出張城へ退いたとされる。毛利氏は同年、銀山城を手中にした(城番の年は1554年説と1555年説がある)。(Wikipedia「厳島の戦い」、Wikipedia「仁保城」、Wikipedia「白井賢胤」)
- 1554年(天文23年)6月5日折敷畑(明石口)の戦いで、毛利軍が陶方の宮川房長を破った。従来の9月15日説は軍記物に由来する誤りとされ、6月5日が有力とされる。(Wikipedia「折敷畑の戦い」)
- 1555年(天文24年)正月〜7月正月、府中出張城の白井賢胤が水軍を率いて草津城と河内警固衆の拠点を襲撃。3月に仁保城の奪回を図るが失敗。4月9〜11日、毛利軍が野間隆実の矢野城を攻め、隆実は降伏後に殺害された。7月10日、三浦房清の水軍が仁保城を攻めたが香川光景が撃退した。(Wikipedia「厳島の戦い」、Wikipedia「白井賢胤」、Wikipedia「仁保城」)
- 1555年(弘治元年)10月1日厳島の戦い。毛利元就の奇襲で陶晴賢が敗れ自刃(グレゴリオ暦では10月16日)。直前の9月24日、毛利軍は佐東銀山城を出て草津城に着陣した。(Wikipedia「厳島の戦い」)
- 1557年(弘治3年)大内義長が自害し、大名としての大内氏は滅亡。白井賢胤はこの後、毛利氏に臣従し小早川隆景の下で水軍に加わった。(Wikipedia「厳島の戦い」、Wikipedia「白井賢胤」)
- 1588〜1589年(天正16〜17年)毛利輝元が上洛して新城の建設を決意(1588年)。1589年4月に鍬入れ(築城開始)、「五ケ村」が「広島」と名付けられたとされる。(広島城の歴史 築城前の広島・広島城築城 - 広島城公式、広島城関連年表 - 広島城公式、Wikipedia「広島城」)
- 1591年(天正19年)輝元が広島城に入城(入城は閏1月ごろとされ、Wikipediaは1月8日とする)。本丸など主要部のみの完成で、石垣は1593年、全体の普請は1599年に終わった。(広島城関連年表 - 広島城公式、広島城の歴史 築城前の広島・広島城築城 - 広島城公式、Wikipedia「広島城」)
- 1600年(慶長5年)9月、関ヶ原の戦いで毛利輝元は西軍の大将として敗れる。10月、毛利氏は周防・長門へ減封され、安芸・備後は福島正則に与えられた。(広島城関連年表 - 広島城公式、福島氏の入国と改易・浅野氏の治世 - 広島城公式)
- 1601年(慶長6年)福島正則が3月に広島城へ入城(入城時期は『3月ごろ』とされ正確な時期は不明とする記述もある)。同年、福島正則が山陽道に西の関所となる大門を設けた後、草津城は廃城になったとされる(広島市資料)。(広島城関連年表 - 広島城公式、福島氏の入国と改易・浅野氏の治世 - 広島城公式、広島市資料(草津城阯の解説を含むPDF))
- 1603年(慶長8年)徳川家康が征夷大将軍となり、江戸に幕府が開かれた(3月24日)。(Wikipedia「江戸幕府」)
- 1619年(元和5年)6月、幕府が広島城の無断修築を理由に福島氏を改易。紀伊和歌山から浅野長晟が安芸一国と備後8郡(42万6,500石)で入封し、8月8日に入城した。以後、浅野氏が明治まで約250年治めた。(広島城関連年表 - 広島城公式、福島氏の入国と改易・浅野氏の治世 - 広島城公式、Wikipedia「広島城」)
毛利氏が銀山城を取った年・草津城を押さえた年:銀山城は1554/1555年、草津城は1551/1554年と資料で食い違う。
毛利元就の銀山城攻め:1541年(広島市・信実の項)とする資料と、1539〜1540年(元就の項)とする資料がある。
有田中井手の戦いの日付:Wikipedia武田元繁は1517年10月21〜22日。厳島の戦いは通説10月1日(旧暦)= 1555年10月16日。
折敷畑の戦い:従来9月15日説は誤りとされ6月5日が有力。
広島市・府中町の物語を、問いでたどる
Q. 府中町の出張城・石井城は、尼子・毛利・大内の抗争でどんな位置にあったか。?
出張城は戦国期の水軍領主・白井氏の城で、白井氏は大内方、さらに陶方に立って毛利と対立した。1554年5月に仁保城を追われた賢胤が出張城に退き、1555年正月にはここから水軍を率いて草津城などを襲ったが、同年4月ごろ城から逃れ、1557年に毛利氏に臣従した。一方の石井城は鎌倉末〜南北朝期の石井氏の城跡と伝えられ、尼子・毛利・大内の戦国の抗争とは時代が異なる。(Wikipedia「府中出張城」、Wikipedia「白井賢胤」、Wikipedia「厳島の戦い」)
Q. 安芸武田氏はなぜ衰え、いつ滅びたのか。?
1517年の有田中井手の戦いで当主・元繁が毛利・吉川勢に討たれて衰え、1541年に大内・毛利勢の攻撃で銀山城が落ちて滅亡した。(Wikipedia「武田元繁」、武田山の歴史を知る 銀山城史略年表 - 広島市、Wikipedia「武田信実」)
Q. 毛利氏は大内氏とどう関わりながら安芸で勢力を伸ばしたか。?
毛利元就は1523年に尼子方へ転じたが、1525年に大内方へ戻った。1541年に大内氏に従って銀山城を攻め、1551年の大寧寺の変で陶隆房に同調して佐東郡などを得た。1554年に陶氏と決別し、1555年の厳島の戦いで陶晴賢を破った。(Wikipedia「毛利元就」、Wikipedia「大寧寺の変」、Wikipedia「厳島の戦い」)
Q. 広島城はいつ築かれ、なぜその場所だったのか。?
毛利輝元が1588年の上洛で近世城郭の必要を感じ、1589年に太田川デルタの「五箇」の地で築城を始めた。祖父・元就が重視した広島湾頭が選ばれたとされる。1591年に入城し、石垣は1593年、全体の普請は1599年に終わった。(広島城の歴史 築城前の広島・広島城築城 - 広島城公式、広島城関連年表 - 広島城公式)
Q. 関ヶ原のあと広島は誰のものになったか。?
1600年に毛利氏は周防・長門へ減封され、安芸・備後は福島正則に与えられた。正則は1619年に無断修築を理由に改易され、浅野長晟が入封した。(広島城関連年表 - 広島城公式、福島氏の入国と改易・浅野氏の治世 - 広島城公式)
Q. 福島正則の改易はなぜ起きたのか。?
1615年の武家諸法度で城の普請には幕府への事前届出が必要になったが、1617年の洪水後の修築を正則が事後報告で済ませようとしたと見られ、1619年に将軍秀忠が激怒。条件付きで許されたが履行が不十分で転封・蟄居となった。(福島氏の入国と改易・浅野氏の治世 - 広島城公式)
城ごとの物語
御城印は、まだ一部です — 広島市・府中町には、もっと城跡があります
城郭放浪記の一覧には、広島市の城跡が190か所載っています。広島歴史回廊が御城印を出せているのは、そのうち7城だけです。いま販売できているのは物語を調べ終えた城に限られていて、残りの多くは、これから順に増やしていきます。
城跡の数は、個人が運営する城郭データベース「城郭放浪記」の掲載数です(2026年10月時点)。公的な統計ではなく、調査や分け方によって数は変わります。
ご存じの城の話や、御城印にしてほしい城があれば、お問い合わせからお知らせください。
広島市・府中町の御城印
広島市・府中町の城のうち、御城印のある7城です。価格は各600円(税込)。広島城は2種類のデザインがあります。
御城印は、トップページの「御城印」からお求めいただけます。各600円(税込)、折り鶴再生紙を使っています。
よくある質問
Q1.広島市・府中町の城は、すべて御城印になっていますか?
いいえ。城郭放浪記の一覧には広島市の城跡が190か所載っていますが、御城印を出せているのは7城だけです。物語を調べ終えた城から、順に増やしていきます。
Q2.広島市・府中町の城の御城印は、どこで買えますか?
佐東銀山城・草津城・府中出張城・石井城・仁保城・矢野城・広島城の御城印は、トップページの「御城印」からお求めいただけます。価格は各600円(税込)です。
Q3.府中町の出張城・石井城は、尼子・毛利・大内の抗争でどんな位置にあったか。?
出張城は戦国期の水軍領主・白井氏の城で、白井氏は大内方、さらに陶方に立って毛利と対立した。1554年5月に仁保城を追われた賢胤が出張城に退き、1555年正月にはここから水軍を率いて草津城などを襲ったが、同年4月ごろ城から逃れ、1557年に毛利氏に臣従した。一方の石井城は鎌倉末〜南北朝期の石井氏の城跡と伝えられ、尼子・毛利・大内の戦国の抗争とは時代が異なる。
Q4.安芸武田氏はなぜ衰え、いつ滅びたのか。?
1517年の有田中井手の戦いで当主・元繁が毛利・吉川勢に討たれて衰え、1541年に大内・毛利勢の攻撃で銀山城が落ちて滅亡した。
Q5.毛利氏は大内氏とどう関わりながら安芸で勢力を伸ばしたか。?
毛利元就は1523年に尼子方へ転じたが、1525年に大内方へ戻った。1541年に大内氏に従って銀山城を攻め、1551年の大寧寺の変で陶隆房に同調して佐東郡などを得た。1554年に陶氏と決別し、1555年の厳島の戦いで陶晴賢を破った。
出典
- 武田山の歴史を知る 銀山城跡 - 広島市
- 武田山の歴史を知る 銀山城史略年表 - 広島市
- 武田元繁 - Wikipedia
- 毛利元就 - Wikipedia
- 佐東銀山城 - Wikipedia
- 武田信実 - Wikipedia
- 大寧寺の変 - Wikipedia
- 厳島の戦い - Wikipedia
- 仁保城 - Wikipedia
- 白井賢胤 - Wikipedia
- 折敷畑の戦い - Wikipedia
- 広島城の歴史 築城前の広島・広島城築城 - 広島城公式
- 広島城関連年表 - 広島城公式
- 広島城 - Wikipedia
- 福島氏の入国と改易・浅野氏の治世 - 広島城公式
- 広島市資料(草津城阯の解説を含むPDF)
- 江戸幕府 - Wikipedia
- 府中出張城 - Wikipedia
- 出張城跡 - 府中町公式サイト
- 石井城跡 - 府中町公式サイト
- 広島県広島市のお城一覧 - 城郭放浪記
年号・人名は上記の出典に基づきます。史実と伝承は分けて書き、伝承は「伝わる」「とされる」と表記しています。資料によって説が分かれる点は、その旨を併記しています。







